【名言・格言】文豪・小説家からのメッセージ選 仕事に生活に明日に効く言葉まとめ
2021.1.22更新〜随時更新中!
文豪の名言・名文から明るい前向きな気持ちで生きよう
小説を読んでいると思わず目が留まってしまう
「心に響く一文」
こういう一文に出会うことってありませんか?
私も一冊に1つくらいは、心に響く一文、お気に入りの一文に出会います。文豪たちからの言葉を味わっていきましょう。
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江國香織
『号泣する準備はできていた』
デパート好きの美代子が、家族の為に買った荷物を店員から受け取る場面での一文。
デパートで、自分以外の誰かのための買物をするくらい幸福なことはない。
江國香織「こまつま」『号泣する準備はできていた』新潮社、106頁。
自由とは、それ以上失うもののない孤独な状態のことだ。
江國香織「手」『号泣する準備はできていた』新潮社、178頁。
小川洋子
『博士の愛した数式』
博士が直線の定義には端がなく、無限に伸びてゆかなければならないから、現実の紙に本物の直線を描くことは不可能であると説明したのに続けて博士が言った一言。
「物質にも自然現象にも感情にも左右されない、永遠の真実は、目には見えないのだ。数学はその姿を解明し、表現することができる。なにものもそれを邪魔できない」
『薬指の標本』
標本にしたものをいつか返すのかと私が訪ねたときの標本技術士の弟子丸の言葉
もちろん依頼者たちは、好きな時に自分の標本と対面することができます。でも、ほとんどの人がもう二度とここへは現れません。きのこの彼女もそうです。封じ込めること、分離すること、完結させることが、ここの標本の意義だからです。
安部公房
『砂の女』
砂穴の底に埋もれていく一軒家に閉じ込められた男が、そこからの逃亡に失敗し、1週間何もかもを我慢した末に孤独というものを見出したときの一文。
「孤独とは、幻を求めて満されない、渇きのことなのである。」
「砂の女」冒頭の一文。砂の村からの逃亡を予感させる始まり方です。
罰がなければ、逃げるたのしみもない。
『箱男』
「箱男」という物語の主人公は段ボールを頭からすっぽりと被って生活している男(=箱男)です。「見ること」「見られること」について考えさせられる文学作品です。
見ることには愛があるが、見られることには憎悪がある。見られる傷みに耐えようとして、人は歯をむくのだ。しかし誰もが人間になるわけにはいかない。見られた者が見返せば、今度は見ていた者が、見られる側にまわってしまうのだ。
芥川龍之介
「桃太郎」
この作品は、有名な桃太郎の話を平穏な日々を過ごしている鬼に人間が「退治」といって非情にも殺しにかかってくるという鬼目線も交えながらの皮肉交じりの滑稽な物語です。そんな鬼から見た人間とは!?
人間というものは角の生えない、生白い顔や手足をした、何ともいわれず気味の悪いものだよ。おまけにまた人間の女と来た日には、その生白い顔や手足へ一面に鉛の粉をなすっているのだよ。それだけならばまだ好いのだがね。男でも女でも同じように、譃はいうし、欲は深いし、焼餅は焼くし、己惚は強いし、仲間同志殺し合うし、火はつけるし、泥棒はするし、手のつけようのない毛だものなのだよ……
芥川龍之介「桃太郎」
夏目漱石
『こころ』
田舎者の親類には別に悪い人間がいないと言ったのに対して先生が苦々しく言った一言。
「(----)しかし悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです。」
夏目漱石『こころ』新潮社、87-88頁。
『三四郎』
三四郎と広田先生の会話で、広田先生の年代の人が偽善家が多いのはなぜかと三四郎が尋ねて
「君、人から親切にされて愉快ですか」
「ええ、まあ愉快です」
「きっと? ぼくはそうでない、たいへん親切にされて不愉快な事がある」
「どんな場合ですか」
「形式だけは親切にかなっている。しかし親切自身が目的でない場合」
人間はね、自分が困らない程度内で、なるべく人に親切がしてみたいものだ。
確かに同じ歳の人でもしっかりしているのって…
二十前後の同じ年の男女を二人並べてみろ。女のほうが万事上手だあね。男は馬鹿にされるばかりだ。女だって、自分の軽蔑する男の所へ嫁へ行く気は出ないやね。もっとも自分が世界でいちばん偉いと思ってる女は例外だ。
夏目漱石『三四郎』
「断片」
現代の社会には本当の意味の「先生」不在であることを綴った文。身につまされます。
現代ノ青年ニ理想ナシ。過去ニ理想ナク、現在ニ理想ナシ。家庭ニアツテハ父母ヲ理想トスル能ハズ。学校ニ在ッテハ教師ヲ理想トスル能ハズ。社会ニアッテハ紳士ヲ理想トスル能ハズ。事実上彼等ハ理想ナキナリ。父母ヲ軽蔑シ、教師ヲ軽蔑シ先輩ヲ軽蔑シ、紳士ヲ軽蔑ス。此等ヲ軽蔑シ得ルハ立派ナコトナリ。但シ軽蔑シ得ル者ニハ自己ニ自己ノ理想ナカルベカラズ。自己ニ何等ノ理想ナクシテ是等ヲ軽蔑スルハ、堕落ナリ。
「断片」、明治三十九年
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三島由紀夫
『金閣寺』
吃音をもった少年(のちに金閣寺を放火する)の内面について述べた一節。
何か拭いがたい負け目を持った少年が、自分はひそかに選ばれた者だ、と考えるのは、当然ではないか。この世のどこかに、まだ私自身の知らない使命が私を待っているような気がしていた。
三島由紀夫『金閣寺』新潮社、8頁。
金閣寺が空襲によって焼かれる可能性があることを知り、金閣寺に再び魅力を感じ始める
金閣はあるいは私たちより先に滅びるかもしれないのだ。すると金閣は私たちと同じ生を生きているように思われた。
三島由紀夫『金閣寺』新潮社、57-58頁。
俺たちが突如として残虐になるのは、たとえばこんなうららかな春の午後、よく刈り込まれた芝生の上に、木洩れ陽の戯れているのをぼんやり眺めているときのような、そういう瞬間だと思わないかね。
三島由紀夫『金閣寺』新潮社、135頁。
芥川龍之介
「河童」
トックという河童が語る芸術論。
トックの信ずるところによれば、芸術は何ものの支配をも受けない、芸術のための芸術である、従って芸術家たるものは何よりも先に善悪を絶した超人でなければならぬというのです。
芥川龍之介「河童」
角田光代
『さがしもの』
おばあちゃんの幽霊に死ぬのは怖かったかと尋ねたときのおばあちゃんの返答。
死ぬのなんかこわくない。死ぬことを想像するのがこわいんだ。いつだってそうさ、できごとより、考えのほうが何倍もこわいんだ。
角田光代『さがしもの』新潮社、183頁。
吉野源三郎
『君たちはどう生きるか』
おじさんから中学生のコペル君へのメッセージ。自分考えというものは何なのか。
だから、こういう事についてまず肝心なことは、いつでも自分が本当に感じたことや、真実心を動かされたことから出発して、その意味を考えてゆくことだと思う。君が何かしみじみと感じたり、心の底から思ったりしたことを、少しもゴマ化してはいけない。そうして、どういう場合に、どういう事について、どんな感じを受けたか、それをよく考えて見るのだ。そうすると、ある時、ある所で、君がある感動を受けたという、繰りかえすことのない、ただ一度の経験の中に、その時だけにとどまらない意味のあることがわかって来る。それが、本当の君の思想というものだ。
吉野源三郎『君たちはどう生きるか』岩波文庫、53-54頁。
太宰治
『グッド・バイ』
太宰治もこんなこと思ってたのですね…
女は、たいてい、これくらい食うの普通だわよ。もうたくさん、なんて断っているお嬢さんや何か、あれは、ただ、色気があるから体裁をとりつくろっているだけなのよ。
太宰治『グッド・バイ』
村上龍
『コインロッカー・ベイビーズ』
「自分の欲しいものが何かわかってない奴は石になればいいんだ、あのあけびの女王は偉いよ、だって欲しいものが何かわかってない奴は、欲しいものを手に入れることできないだろう?石と同じだ、あのバカな娘はずっと石のままだったらよかったんだ」
村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』講談社、417頁。
もう忘れることはない、僕は母親から受けた心臓の鼓動の信号を忘れない、死ぬな、死んではいけない、信号はそう教える、生きろ、そう叫びながら心臓はビートを刻んでいる。筋肉や血管や声帯がそのビートを忘れることはないのだ。
村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』講談社、562頁。
益田ミリ
『前進する日もしない日も』
優しい言葉って、人に言われるだけでなく、自分が発することによっても、温かい気持ちになるんだなぁ。
梨木香歩
『西の魔女が死んだ』
自分が楽に生きられる場所を求めたからといって、後ろめたく思う必要はありませんよ。サボテンは水の中に生える必要はないし、蓮の花は空中では咲かない。シロクマがハワイより北極で生きる方を選んだからといって、だれがシロクマを責めますか。
まとめ
本を読んでいてふと目が留まってしまう一文、いかがでしたでしょうか。文豪の一つ一つの言葉にはハッとさせられますね。ぜひみなさんのお気に入りの一文も教えてください!
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