【偉い人ってどんな人?】夏目漱石『こころ』から見る「先生」観
偉い人ってどんな人?
少し前にある子どもに聞かれて考えさせられたことがあります。
「偉い人ってどんな人ですか?」
と色々考えましたが、本当にそうでしょうか。確かに上記の三方は立派な方だと思います。しかし、このように偉い人と聞かれてまず出てくるのは「組織の」トップではないでしょうか。そこにその人自身を見る視点を忘れてはいないでしょうか。この時、夏目漱石の教えを思い出しました。以下、この夏目漱石の教えを見ていきましょう。
先生は「先生」ではない
夏目漱石がしきりに訴えていたことがあります。それは社会の中に師(先生)が不在だということです。
これはこの頃には学校がなかったのか、という話ではありません。むしろ学校があるからこそ「先生」がいないのです。
これはどういうことでしょうか。もともと先生というものは尊敬できる教えを請うべき師匠のような存在でした。しかし今、先生と呼ばれる人は「学校の」先生、「弁護士の」先生、「病院の」先生など制度上の呼称にすぎません。そこには教えを請いたいとか尊敬とかいった感情を含みません。
まさに社会に先生がいない状態なのです。先生は「先生」ではないのです。
現代ノ青年ニ理想ナシ。過去ニ理想ナク、現在ニ理想ナシ。家庭ニアツテハ父母ヲ理想トスル能ハズ。学校ニ在ッテハ教師ヲ理想トスル能ハズ。社会ニアッテハ紳士ヲ理想トスル能ハズ。事実上彼等ハ理想ナキナリ。父母ヲ軽蔑シ、教師ヲ軽蔑シ先輩ヲ軽蔑シ、紳士ヲ軽蔑ス。此等ヲ軽蔑シ得ルハ立派ナコトナリ。但シ軽蔑シ得ル者ニハ自己ニ自己ノ理想ナカルベカラズ。自己ニ何等ノ理想ナクシテ是等ヲ軽蔑スルハ、堕落ナリ。
「断片」、明治三十九年
夏目漱石『こころ』と先生
このような「先生」の思想がよく表れているのが、有名な『こころ』の作品です。高校の教科書にも採用されている名作ですよね。この作品のなかにも先生が登場しますが、まさにこの先生が夏目漱石の思う本物の先生だと思います。この先生は学校の「先生」でも病院の「先生」でもなく、ただただ師としての先生なのです。有名な冒頭にこうあります。
私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚かる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執っても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない。
夏目漱石『こころ』
そしてこの先生は学校の先生ではないというどころではなく、職業は高等遊民。つまり、たっぷりお金を持つ働かない人です。リッチなニート?資産運用家?みたいなものでしようか。とにかく『こころ』には、職業としての「先生」は登場せず、ただ教えを請うべき存在である先生が登場しているのです。
「偉い人ってどんな人ですか?」にどう答えたか
この質問をしてきた男の子にはこう答えました。
子:偉い人ってどんな人ですか?
私:うーん。◯◯くんはだれが偉い人だと思う?
子:安倍総理!!
私:そっかー。じゃあ安倍総理がもし総理大臣じゃなかったら「偉い人」だと思う!?
子:うーん…
私:ただの優しそうでゴルフ好きのおっちゃんかもよ。
子:笑
私:総理大臣とか社長とかがないとして、◯◯くんがすごいなと思う人っている?
子:お父さんとお母さんかな。
私:じゃあ◯◯くんにとっての「偉い人」はお父さんやお母さんみたいな人なんじゃない?
さいごに
子どもへの回答は良かったかどうかは分かりません。しかし、すごいなと思える人がいるというのは立派なことだと思いました。
果たして私自身の先生は誰なのかということをこの子に考えさせられたように思います。役職など関係なく、心から尊敬できる師匠のような存在の人を見つけ、大切にしていきたいものです。
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[参考]
姜尚中『100分de名著 夏目漱石「こころ」』NHK出版、2013年。