トビウオ読書日和

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【精読】森鴎外『安井夫人』自立する女性を描いた文学 -平塚雷鳥との親交を通して-


森鴎外の著書である『安井夫人』という作品を精読していこうと思います。森鴎外といえば『高瀬舟』や『舞姫』などの作品で有名で、著者の作品を1つは読んだことがあるのではないでしょうか。
そんな森鴎外が書いた本作『安井夫人』で読み取りたい点は、「新しき女」を表す女性の姿です。森鴎外は『舞姫』以降の作品で因習から自立する女性を描き、女性の権利確立に寄与しました。
ここでは、『安井夫人』を
次の手順で見ていきたいと思います。

あらすじ

1.美男の兄 と 不男の仲平

兄:文治と弟:仲平とその父とが住んでいた。兄は美男子で有名だったが、弟の仲平は背が低く、色黒で、片目の不男だった。二人で畑に通っていると、道で行き逢う人が、皆言い合わせたように二人を見較べて、不釣り合いな二人をからかった。仲平は兄と一緒に歩くのを辛く思ったが、村人が仲平を冷やかすのは続いた。
仲平が二十三歳になったとき、故郷の兄文治が死んだ。学殖は弟に劣っていても、才気の鋭い若者であったのに、とかく病気で、とうとう二十六歳で死んだのである。

2.仲平と縁談

仲平は将来、藩の学問所で講壇に立つために勉学に励んだ。二十九歳になるとき父が息子に嫁を取ろうと言い出した。しかしこれは決して容易な問題ではない。仲平は勉強熱心で「出世するだろう」と噂されたが、何せ不細工であったからだ。あちこち迷った末に、父は同じ故郷の川添家の娘に縁談を申し込むことにした。

3.「お豊」と「お佐代」との縁談

川添家には仲平の従妹が二人いた。
妹の佐代(さよ)は十六歳と若く、それに器量よしという評判の子で、若者どもの間では「岡の小町」と呼ばれており、どうも仲平とは不釣り合いなように思われる。
姉の豊(とよ)なら、もう二十歳で、遅く取るよめとしては、年齢の懸隔もはなはだしいというほどではなく、豊の器量は十人並みである。性質にはこれといって立ち優ったところはないが、女にめずらしく快活で、心に思うままを口に出して言う。父はお豊にどう声を掛けるか悩んだ末、仲平の姉で、ご新造(しんぞ)と言われている人に仲介をお願いした。

4.断られる縁談と申し込まれる縁談

ご新造はお豊さんに仲平との縁談の話をもちかけると「わたし仲平さんはえらい方だと思っていますが、ご亭主にするのはいやでございます」と冷然として縁談を断った。
するとなんと「岡の小町」と言われる妹のお佐代が、仲平に嫁ぎたいという申し出をする。これには父もご新造も仲平も驚いたが、お佐代さんの決心はかたいようだった。
 二人が結婚した翌年仲平が三十歳、お佐代さんが十七歳で、長女須磨子(すまこ)が生まれた。

5.仲平とお佐代の生き方と最期

藩の学校で六十五歳になる父は総裁になり、三十三歳になる仲平がその下で助教を勤めた。仲平はそうしてどんどん出世していき、様々な役を命じられるようになっていった。
お佐代さんの方もなりふりに構わずに家の仕事に精を出した。その上、着物も木綿のものを1枚もっているだけで絹物などはめったに着ず、うまい物を食べたいとも言わなかったし、面白いものを見たがったりもしなかった。そして51歳で亡くなった。仲平もその14年後、78歳で亡くなった。

本作が書かれた時代背景

『安井夫人』が発表されたのは1914年(大正3年)です。この頃は女性解放運動が盛んに行われていた時代でした。
1911年には平塚雷鳥が中心となって女性のための雑誌『青鞜』が発刊されています。当時は女流文芸誌でしたが、しだいに女性問題専門誌に転換し、女性解放運動の拠点となった雑誌です。
森鴎外平塚雷鳥と親交があったことから、この『安井夫人』は平塚雷鳥が発端で起こった女性解放運動の影響も受けていると考えられます。

安井息軒と安井夫人

安井夫人というのは実存する安井息軒の妻をモデルにしています。では、安井息軒と安井夫人とはどういった人物だったのかを宮崎県先覚者のホームページを引用して見てみます。

安井息軒について

幼い頃から学問に目覚め、生涯学ぶことを止めなかった儒学者・安井息軒。周りの冷やかしも一蹴してしまうほどの強い信念と高い志で、深く鋭く書物を読み解き、いつの時代にも通用する「真理」を追究した人物です。国を憂い、故郷を思いながら、己の学識と情報を惜しみなく提供し、多くの人材を育成しました。
出典:宮崎県先覚者HP https://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/kenmin/kokusai/senkaku/pioneer/yasui/index.html

安井夫人について

息軒が28歳の時、清武郷今泉村岡に住む川添家のお豊に仲人を介して結婚話を持ちかけましたが、破談に。ところがその妹お佐代が「私が嫁ぐことはできないか」と申し出て、息軒はお佐代と結婚しました。佐代は「岡の小町」と噂されるほど美しい娘で、16歳とは思えない甲斐甲斐しい働きぶりを見せました。森鴎外の小説『安井夫人』では、佐代を“美しき半身”と称し紹介しています。
生涯息軒に寄り添い、質素な生活に文句一つ言わなかったとされる佐代夫人。息軒が幕府儒官に到達する直前、50歳の若さで死去しました。
出典:宮崎県先覚者HP https://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/kenmin/kokusai/senkaku/pioneer/yasui/index.html

作品に見る「新しき女」 -安井夫人のどこが新しかったか-

では作中のどういったところに「新しき女」を見ることができるのでしょうか。具体的に二点を本文を引用しながら見ていきます。

(1) 嫁ぎ先を自らの意思で決める


作品が書かれた当時、嫁ぎ先は親や周囲の計らいによって決められるのが慣習でした。しかし、お佐代さん(安井夫人)は16歳の若さで自分の意思に基づいて息軒を夫に選び、嫁いできました。そしてその前にはお豊(お佐代の姉)は息軒の父が息軒の妻に迎える申し出を断ります。ここにも女性が自らの意思を主張し、自立していく新しき女の一面があるのではないでしょうか。
お豊さんが婚談を断る場面 ↓

〔お豊に安井息軒の父が結婚のお願いをしたのに対してお豊が〕「わたし仲平さんはえらい方だと思っていますが、ご亭主にするのはいやでございます」冷然として言い放った。
森鴎外『安井夫人』

お佐代さん(安井夫人)が
嫁ぐ意思を伝える場面 ↓

お佐代が姉にその話を聞きまして、わたくしのところへまいって、何か申しそうにいたして申さずにおりますのでございます。なんだえと、わたくしが尋ねますと、安井さんへわたくしが参ることは出来ますまいかと申します。
森鴎外『安井夫人』

(2) 当時の価値観から森鴎外の女性観へ

お佐代さんは、小説でも史実通り以下のような質素な生活でも文句ひとつ言わず甲斐甲斐しく働き、その生涯を終えたことが記されています。

お佐代さんはどういう女であったか。美しい肌に粗服をまとって、質素な仲平に仕えつつ一生を終った。[----]お佐代さんは夫に仕えて労苦を辞せなかった。そしてその報酬には何物をも要求しなかった。ただに服飾の粗に甘んじたばかりではない。立派な第宅におりたいとも言わず、結構な調度を使いたいとも言わず、うまい物を食べたがりも、面白い物を見たがりもしなかった。
森鴎外『安井夫人』

しかしこの謙虚で殊勝なお佐代さんに対して、森鴎外は作品中に次のように述べています。

お佐代さんが労苦と忍耐とを夫に提供して、まだ報酬を得ぬうちに亡くなったのだといふなら、私は不敏にしてそれに同意することができない。お佐代さんは必ずや未来に何者をか望んでゐただらう。そして冥目するまで、美しい目の視線は遠い、遠いところに注がれてゐて、或は自分の死を不幸だと感ずる余裕を有せなかったのではあるまいか。其望の対象をば、或は何者とも弁識してゐなかったのではあるまいか。
森鴎外『安井夫人』

つまり、お佐代さんはただ夫を支えるために生きたのではなく、胸の中で大きな野望を抱いていたのだと言うのです。これまでの女性は男性を支えるという価値観でしたが、森鴎外はそれを否定したと言えるでしょう。新しい女性観の登場をこの作品から読み解くことができます。

感想

 『安井夫人』が発表された頃の女性解放運動や平塚雷鳥などとの繋がりを捉えた上で、この作品を読んでみると自立する新しい女性像が見えてきました。
 100年以上前の作品ですが、示唆に富んだ作品で森鴎外が安井夫人を評した部分はドキリとさせられます。女性が男性に仕えて一生を終えるという時代の終わりをこの物語は語っているように思います。昭和・平成・令和と男性だから女性だからという凝り固まったジェンダーから解放されてきている、国民総活躍社会の今だからこそ熟読したい一冊です。
 長くない短編の小説で、文体も読みやすい作品です。是非手にとってみてください。

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